2011年4月13日水曜日

かくも寛容なる組織



また散ったはずの花を咲かす!


枝先は満開.幹部も実に寛容だ.終止符としての花ゆえだろうか?
仇桜と言われても,毎年なんら遜色なき継承を平然と披瀝する.


この生き様には,持続の美がある.
花とは表現であり,そのひとひらは消えゆくパケットだな.♪
饒舌の後  長い夏の沈黙.

でもサクラは, アキラメナイ….


2011年4月6日水曜日

初めてのことは楽しく….

TwitterもBlogも要領を得ない.変わらぬ日常がある内に身軽になっておこうと始めたが,どんな状況下であれ,はじめはやはり初心者.是非とも大目に見たいただきたい.
初心忘るべからずであるので,この心境は大いに活かせそうだ.

 言葉は飛び交い,もはや誰もが発信者であるが,信源は限られている.地震のように縦波や横波もある.

 他者の情況や怜悧な意見をどのように共有し,状況を把握しつつ行動するか?縦波より素早い通信インフラによる警報が,どれほど今回の被災防止や心の安心に役立ったことか!災害から復興まで,今後はきめ細やかな警報に注意していこう.

 「すぐ来るぞ!」という警告はわかりやすい.しかし,10秒,1分,3分と待って何も起きなければ,信頼はみるみる不信に変わる.もし,一週間,一ヶ月と経って,同じような状態が続くと,もうその警報を誰も信じなくなる.

 しかし,これが放射能となるとあたりまえのようになっている.人間は,放射能に対しては重度の知覚障害なのだ.それでも自然淘汰されることがなかったほど,自然環境は穏和だった.だが現代では,そうはいかない.災害を受けそうな原発も羽の生えた原爆も世界中にある.化け猫のごとくしのび寄られ,去った後にその爪痕に気づく.これでは,立法も行政も機能するわけがない.悲しいかな不可視のUFOのごとく騒ぎ立てるマスコミは,風評の苗床となり,学者までもが受け売りの情報を垂れ流す.

 もはや可視化だけが頼りである.放射線の影響は,定性化,定量化が複雑で,一人一人の個別の時間と空間のデータが揃わねば判定ができず,まるで美に捕らわれたのと同様にその放射の程度は,強度と持続の仕方,蓄積による残留値などに影響されるようだ.これでは,なんとも不安が払拭されない.
 ではどうするか?簡単だ.昔流行った話しがある.「猫の首に鈴を付けるには,みんなが付ければいいんだ.そうすれば猫も真似するさ!」 なるほどである.そこで,気休めに下記リンクのようなちょっと大袈裟な提案をしてみたい.

放射線量計付き携帯電話の提案
http://arsnote.com/LINK/catsbell-2.pdf

 
 

2011年4月4日月曜日

自然は脅威か?

 脅されているわけではないので,天災はこれほど残忍で恐ろしくとも憎めない.どれほど恨んでいても,また天災はやってくる.

 引け際がはやいTUNAMIは,もう春の顔だ.自然に意思が無くてなんとも幸いだが,死ぬほど怨んでやっても反省はしまい.

 さて,天災に関わる人災は厄介だ.災が災を呼ぶからだ.歴史を省みながら,慎重に日々の決断をする以外に,手立てはない.

 自然は手加減もするが,容赦もない.思い上がらず,怯まず,無心を持って,科学的に対処せざるを得ない.怖くて楽しい相手だが,こんなにひどい仕業となれば,やはり悲しい.

 泣いては居られないと思う内に,もう花の季節とは…あまりにも非情である.ならば,泣けない自然に代わって,花を愛でながら泣いてやろう. isi